誰にも言えない文句、哲学とファッション
空中に向かって落ちていきそうな焦燥感。
偽物ヌーディストの様な落ち着きのなさだ。
今日は義理の両親、義理の姉夫婦と妻と都内に出かけた。
ちなみに私の両親と妻は半年以上前に会ったのを最後に会っていない。と言うか侮蔑しており会ってくれない。すごい温度差だけれど気にしない様にする。
3歳の姪っ子に会うのは楽しみだ。
姪っ子は母の義理姉と似て美人だと思う。
その成長を見守り続けることはないのかもしれないけど。
妻がその姪っ子に教えていたことに驚いた。
「言葉で言っても言うことを聞かなければ、暴力をしてもいい」
そう教えていた。
これはDVが起きても仕方のない考え方だなと思った。
何だか自然と距離を取りたくなってしまった。
こちらから弱者のオーラを匂わさなければ、殴ってくることはないだろう。
でもどこかで喧嘩になり、一方的にぶちのめされてしまうんじゃないかと怯えている。
大きな喧嘩や問題もなく、家族の外出は終わった。
問題は明日だ。
有名なテーマパークに連れていかれるのだけれども、十中八九妻の激怒で台無しになって終わる。
それを防ぐのが私のいつもの役割だ。
私の集中力が今日は保てたため今日は無事に終えられた。
しかし、明日は朝早くから、夜遅くまで拘束時間が長く、注意を張り続けなければならない。
病み上がりで風邪薬はまだ飲んでいるので、本調子になる前に体力的にはきつい。
でも、口答えはできない。
「働いていないのに」「お金を出してもらってるのに」「どうせまた私が悪いんでしょ」と言われるネガティブな妄想を繰り広げる。無意味に。
こんなところに居たくない。
私は何でここにいるんだろう。
生活を終わらせてしまいたい。
そんなことを考えても仕方がない。
学習性無力感が両手両足を捥いでくる。
いつか終わる。
それはわかっているが、それまでの在り方がどうなのか。
なりたいものはわからなくても、なりたくないものはわかる。
こもままじゃいけない。
焦りと、無力感。
無力感。
妻にSMバーに行きたいって言ったら、早く自分で稼げる様になれ。と言われた。
その通りだなと感じた。
現実を受け入れて、できることに力を入れて取り組み、復職と言う目標に向かって今は生きる他にない。
生活の方向性というか、自分の軸というか、生活基盤を自立させないと、私はいつになっても依存したままの生活から抜け出せない。
甘えている。
世界の全てに甘えている。
自分にいくら罰を与えてもきりがないくらいに。
違う罰の与え方をしよう。
しっかりと耐えて生きる。
これも一つの贖罪の方法。
時間がない。
前からだが、想像の中で人生の残りの時間のシミュレーションを繰り返している。
焦りが募る。
こんなはずじゃなかった。
こんな30歳になる予定じゃなかった。
節目を感じる年はまたあるかもしれないけれど、40歳になったらまたこんな感じで焦りを感じているのだろうか。
休職して、今は人生の長いスパンで物事を考えることができる状態なのだと思う。
物語で言えば、この期間に人生の目標とか、生きる意味とかを何か見つけて仕事に戻り活躍していく様な気がする。
しかし今度の休職で私が何を得たのかはまだわからない。
どちらかというと、得たものというより、失ったもの、失ったことを認識して、その埋め合わせをする様に心の整理をしている様な気がする。
死が怖いと思う限り、辛いけれど、それが私らしさを構成する一つであり、私が生きるのをやめない理由である。
タナトフォビアは、生きるために必要な態度である。
この態度を知ってしまった以上、思索を止める訳にはいかない。
全ての哲学者が死にゆく中で見つけてきた様に、私も(大層なものではなくとも)自分が納得できるだけの自己哲学を構築したい。
その時間はいつか。
今しかないのではないだろうか。
驚いたことに、(もう驚くこともないが)3月に受けた占いの話と一致する。
〜〜あなたは2月頃から7月まで、一人で頑張らなくてはならない。これは他の誰にも頼れない。自分で何とかしなくてはならない〜〜
7月のいつまでか知らないが、今月中か来月までにはこのタナトフォビアとの戦いに終止符を打たなければならない。
今学んでいる心理療法、森田療法、ゲシュタルト療法を使ってみよう。
学んできた哲学を体系的に整理してみよう。
躁鬱抜きにして、自分が恐怖と感じている状態になるときのパターンと思考方法を恐れずに整理し、乗り越えよう。
逆に考えてみよう。
タナトフォビアの恐怖を克服したら、もはや無敵なんじゃないかとか。
なぜこのタナトフォビアの感覚は信じて、他の考えは信じないのか。固執している。
現実が見えていない上等。
私にとっての現実は、形而上学的な分野も含まれるのだ。
だから一般的には問題とされていない部分まで考える。
無限年後の未来なんて関係ないと言えば関係ないのかもしれないけど、この世界とは何かを理解したいと考えるなら知っておきたい。
この世界は収束しているのか。
この世界は拡散しているのか。
いけない、根本的には仏教的価値観が文化として根付いてるから、考え方も仏教的になりがち。むしろ宗教的な価値観を無視した世界観というものは存在するのだろうか。ネイティブアメリカンの考え方やゾロアスター教といった少数は宗教の考えを知りたい。
そしてすぐ世界=宇宙と関連づけるけど、深海はどうか、体内はどうか。
0と1の集合体においてはどこに世界が広がっているのだろうか。
data教が出てくるのも時間の問題。
本当に、大魔道時代はやってくるのであろうか。
正しい知識を身につけなくてはならない。
哲学を学ぶことは、ファッションと似ている。
逆にいうと、ファッションは哲学そのものである。
流行に乗った哲学を採用してばかりではなくて、トラディショナルなものを学び、自身のセンスによって無限の組み合わせを作り出す。
そうか、学んだ哲学は、文字表現だけでなく、生き方やファッションに還元すればいい。
今日はここまで。