Metamorphosis

躁鬱日常変化の定点観測

携帯販売のこと。何でも忘れてしまう私

今日はこどもの日

 

今朝は何かに怒りながら目が覚めた。

 

起きてすぐ見てしまった、大阪の動画への怒りを先に感じたのかもしれない。

 

妻を疑うことはよそう。私も人のことを言えたような者ではない。

 

今日は妻が携帯電話を機種変更したいとのことで、池袋に行って4店舗くらい回って店員に話を聞いてきた。

 

各店料金値引きを競っていたが、どこでも似たような料金。

しかしヤマダで接客してくれた店員さんがものすごい熱量を持っていて思わず購入を決めそうになった。

その店員さん、「なぜここまで値引きするのに買わないんですか?」「どうすれば買ってくれますか?他のお店に行く理由はなんですか?」と心理的にも物理的にも(小さく前習えしたときくらいの近さ)とても近くで話してきて、貪欲さというか、意欲に感心してしまった。

しかしまだ決めてに欠けていたため断って店を出た。

 

昔、私が携帯販売員のアルバイトをしていた頃を思い出す。

 

その当時と違って、みんな iPadを片手に料金計算を簡単にしてみせてくる。

私の頃は電卓だ。

 

販売員としての私は、お客さんの話をよく聞き、それに合わせた機種をチョイスして納得してもらって買ってもらうことが嬉しかった。

商品知識は誰よりもつけていた。

最先端のものに興味があったから、新しい携帯電話(この頃は携帯とスマートフォン)が出る度に行われる新商品研修に参加するのが大好きだった。

販売員としての実績は、定量化できないけれど1日で二桁台数は売っていた。

新人研修講師も行ったし、催事のディレクターとしてドコモの山田社長(当時)とも会った。

 

大学留年した時に、学費が払えなくなり、学費のために留年期間を延ばして生きるためにやっていたバイトだったが、今の会社への就職を機にやめた。

 

そのころは毎日疲れて大変だったけれど、運動部の部活のような活気に満ちていた。

よく働き、よく遊んでいた。

 

今の自分に、自分の意思は無い。

昔の自分に、自分の意思は確かにあった。

 

躁鬱の診断をされてから、自分の判断ミスを繰り返すうちに、自分で判断をするのは危険と判断し、無責任な態度をとるようになってしまった。

判断の放棄だ。

 

最近まで、思考の放棄まではしてはいけないと思っていたが、実際のところ怠惰な生活に目を背けて、思考の放棄をし、他人の目と内側からの恐怖発作だけに反応して綱渡りのような気持ちで毎日を繰り返している。

 

繰り返していう。思考の放棄をしている。

 

そして「忘れてしまう」からって私自身に対して措置を怠っている。

 

このままではいけない。毎日そう思っている。

きっと明日の私はそんなこと考えていたというのも忘れていると思うけど。

私はクソだ。毎日思ってる。

 

今日はここまでだ。

何書いているか聞かれている。

終わる。