死生観の変化、「時間とは」、「有限的パッケージ世界」の思考実験、HEROの概念
心臓が脈を強く打つ。
自分が死んだ時のことを冷静に考えている。
私が死んだら、遺書を書いておかないと、今までお世話になった人に連絡することができない。
1ヶ月前の自分にこんな事を考えていると想像できようか。
ここ最近、タナトフォビアの強い発作が出ることが激減した。
これは仮説だが、「死ぬ事によって、大切なものを失いたくない」という気持ちが強いほどタナトフォビアが強くなるのではないかと考えている。
死は永遠の別れ。
その摂理を受け入れられないほど、大切なものを持っていたんだと思う。
そして今、私にはそこまでの大切なものを失ってしまったのかもしれない。
大層に言うと「永遠の純愛」のような幻想があって、それが無いと理解した今、冷めたような目で自分の人生を見ている。
タナトフォビアは、「自分が死にたくない」と言うより、「大切な人と絶対的に別れがくることを理解しないといけないがそれを受け入れられない」と言う病的心理なのかもしれない。
事実、私は以前よりタナトフォビアより希死念慮の方が割合増してきた。
話を切り替えよう。
「シュタインズゲート」と言うアニメを見た。
(以下ネタバレを含みます)
これくらい間隔を開ければ良いだろう。
「世界線」という考え方。世界の捉え方を学んだ。
世界は一つではなく、紐のように、または縄のように並行した世界線が並んでいて、選択によって分岐したり、過去改変によって変化する。
私はこれは実際にありうると考えている。
時間の概念の話をしよう。
時間とは、「時間の矢」のように、キリスト教的終末論のように、直線的にある一点の特異点から始まり収束するとは考えていない。(世界の外において)
始まりもなければ終わりもないと考えている。
むしろ、時間は不動のもので、動いているのが世界の方なんだと思う。
それを知覚するのが世界を認知できる全ての生きている存在であり、それはある意味乗り物のようなものである。
「狭い自分の内面と広い世界」ではないのだ。
「広い自分の内面(世界の外)と狭い世界」なのだ。
仮に、人生を体感できる究極のVRを実現したとしよう。
映画マトリックスのような世界観だが、閉鎖的有限的な「世界」が作り出せたとして、
その中に入っていたとして、どのように気づくことができよう。
私はよくリアルな夢を見る。
現実では起こっていないけれど、現実とはちょっと違う世界の夢。
これを別の世界線の記憶と思うと妙にしっくりくるのだ。
デジャヴもよく見る。
世界に不具合があった時にそれを修正した時に起こっているのではないかとも思う時がある。修正される前の世界の記憶が夢として表現され、私の記憶が混濁しているのではないかとも思う。
(中二病と考えてもらって構わない。世界は幻だとか思ってるし。)
話を「時間」に戻そう。
時間とは、切り出して考えると、GPSの座標のようなものであって、動いてはいない。
パッケージ化された世界の中の、時間軸としての座標だ。
なので現在地を教えてと言うところの正しい回答は、「西暦2019年5月15日16:34 位置座標X,Yだ」と答えるべきだろう。
この「パッケージ化された世界」は有限であるからにして、時間の始まりと終わりは存在する。しかし「パッケージ化された世界」の中の住人である私自身には時間の始まりと終わりを認知することができないようになっている。
内側から全体像は見ることができないのだ。
では外側とは。
ここまで書いて、私は死ぬべきと思ってしまった。
怖い
怖い
怖い
怖いよ
怖い
また違う形のタナトフォビアが出てきてしまった。
恐怖は一層深まるばかりだ。
世界への考察を深めると恐怖感が出てストップをかけてしまうのはなぜか。
この恐怖は誰かの恣意的なものなのか。
それなら抗うべきなのか。
恐怖をなくした時、私は死ぬと思う。
世界の外側についてあまり深く考えると、よくない気がする。
でも、私はまだ頑張る必要がある。
失いたくない友人、まだ知らぬ世界、身の回りの全て。
大切にして生きていたい。
私は、生死より大切なことは、「姿勢」だと感じる。
どう生きたか。
どういう姿勢で生きているか。
未来も過去もどうしようもないんだから、今のあり方を考えて動くしかない。
メルロ=ポンティのHEROの概念を思い出させられる。
HEROとは、勇猛果敢な超人のことではなく、現状を引き受け行動する様のことであると認識している。
大切に今を生きる。
生きる。