Metamorphosis

躁鬱日常変化の定点観測

記憶を巡る旅 その1 生まれて〜小学生時代

私は、幼稚園までの記憶はほとんどない。

最初の記憶にあるのは、幼稚園入学前日、2階の寝室の布団で親とゴロゴロしながら幼稚園生活について話している記憶だ。

母は専業主婦、父は外資系の企業で広告関係の仕事をしており、比較的ゆうふくであったのかもしれない。

記憶にはないが、この頃帝国ホテルに泊まらせてもらった事があるという。

一つ屋根の下で2世帯最大7人で暮らしていた。

 

幼稚園では、なかなか言うことを聞かない子だった様で、みんなで集合して紙芝居をみるときなんてずっと一人で遊んでいたそうな。

外に出れば土いじりが好きだった。

新聞紙を食べたり、10円玉を舐めたり、地面の砂を口に含んだりもした。

レゴブロックが好きだった。

思い通りのおもちゃがなければ、自分で紙パックや段ボールで作った。エレベーターとか。

中の良い友達は数人いた様だが名前も顔も覚えがない。

当時好きだったのは「マキ先生」だった。マセガキだ。

〜幼稚園の頃、妹とじゃれあって座布団を頭にかぶせ乗せかかり、妹を殺しかけたのもこの頃だ〜 

ランドセルと千歳飴を買ってもらった時に立ち寄ったおもちゃ屋さんで「ミュータントタートルズ」のおもちゃが欲しくて動かず買ってもらった記憶がある。

 

小学校入学

所謂、物心がついたのが小学校2年生くらいのことだった。

小学校1、2年生では室田先生というとても求心力のあるおおらかで自然を愛する先生の元、私の人格を肯定してくれ、のびのびと過ごした。虫のふんを集めていた。

室田学級では、教室の後ろに切り株を椅子にした喫茶の様な空間を設けて、先生と生徒、また保護者の関係性が非常にフラットだった。

特に覚えている授業は、当時カリキュラムになかった「創作ダンス」を授業で行ったことだ。

周りのみんなは音楽に合わせて踊っていたが、私は最初はその場から動かずリズムを刻み、だんだんと動いていく「ボレロ」の様なダンスを踊った。

この頃も多感で「グリーングリーン」を聞いて泣いたり、天空の城ラピュタを見て自分でロボット兵を作ったり絵をよく描いていた。あの世界観が好きだった。

先生によく褒められ、他の子にはない才能があるという言葉を今でも信じる事がある。

 

あっという間に濃密な2年間がすぎた。

当時は将棋が好きだったかな。近所のおじいさんとよくやっていた。チェスは強い。

たまごっちも流行ったし、入手困難な中持っていた記憶がある。

よく家族で(この頃は健全な?家族だった。親戚付き合いも多かった)軽井沢の別荘を借りて旅行に行った。美ヶ原高原美術館の記憶が断片的にある。

 

3、4年生の担任は高橋先生。今は故人だ。

高橋先生で覚えているのは、「早め早めがちょうどいい」という格言。まさにその通りだと思う。

長野オリンピックがあった年だったと思う。

高橋先生は、授業そっちのけで、みんなに冬季長野オリンピックの開会式をテレビで見せてくれた。

学校ではいじめが問題になっていたが、私はいじめる側ともいじめられる側とも話す事が多かった(中間?)し、仲良くしていた。バスケットボールクラブに少しの間所属していて、ガキ大将の様な岩Mくんとも仲良し(喧嘩もした)だった。

 

5、6年の先生は、当時若き男性であった(今の私くらいか?)須田先生だ。

須田先生とは反抗期もあって何度か大げんかをした。

隣のクラスの先生による、あるディベートの授業で、賛成派と反対派に分かれて討論する時、人数が偏っているからとの事で私が反対派に移された時、猛反発した。

確かテーマは人間はその人の書く文字で人柄がわかるVSそんなことはない反対派。

私はその隣のクラスの先生に「帰れ」など暴言を色々言った。

当然のことながら須田先生は責任も感じ私を叱ってくれた。(大げんかした)

人数合わせで組体操を一緒にやってくれた記憶もあるし、愛車のNSXに乗せてくれた記憶もある。

遊戯王カードが大流行りした。

学校に持ってきてはみんなで交換したり、対戦をした。

ドラゴンクエストのバトルエンピツも飽きるほどやっていた。

学校が終わったら、ゲーマーの青Kくんちに集まって、みんなでスマブラ大会をやった。

この頃、父親に「お前は悩みはないのか」と聞かれ、はっきりと「ない!!」と答えた記憶が強く残っている。今では考えられない自己肯定感だ。

当時ハムスターをたくさん飼っていたし、ミシシッピーアカミミガメも飼っていた。

ペットを飼っていたのは後にも先にもこの頃だけだ。お別れは辛い。

 

初恋というものが、「告白して付き合った」というものなら、この頃であろう。

小学5年の頃に仲良くしていた綿Bさんが引越しで他校に移ってしまうことになり、お別れする前に、こちらから言った。なぜか高級な鉛筆を渡すとともに。みんなの前で。

OKしてくれて、数回出かけたものの、手を繋ぐ事すらままならず、引っ越していってしまった。

家庭の事情が複雑で、今から思えば鬱に近い感じだった。支えてあげたいと思った。

彼女はその後数回あったが、今は何をしているかわからない。生きているであろうか。

 

この頃幼馴染と言える友達は5人くらいいて、よく広Sの家に集まって夜遅くまで話した。小学生にしては不健全だったのかな。

 

小学校卒業

今回はここまで。

 

次回、中学時代は荒れた。。