粉々に踏みつけながらいきていく現在 -映画「天気の子」鑑賞-
雨から晴れに変わったこのタイミングで、新海誠監督の「天気の子」を映画館で観た。
私が生まれてきた意味を考える日になった。
今朝は昨日の隅田川花火大会の疲れもあってゆっくりと起き、10時くらいに目が覚めた。
潰れはしなかったものの、飲み過ぎて酒やけで声が変わってしまっていた。
今週頭くらいから観たいっと思っていた天気の子を見ようと、昼の一番暑い中家の近くのイオンに出かけた。
イオンには映画館がついているので、徒歩5分で映画館というのは贅沢だ。
イオンの前の公園では、お祭りがやっていて普段見ないくらいの人だかりができていた。
祭り好きだったことを思い出しながら焼きそばや牛串を食べた。
昼を食べ、クレーンゲームで驚異的な狙いでスプラトゥーンの「ロボットボム」を二つ手に入れた。
時間が来たので映画館へ入り、サンダルを脱ぎ、持ち込んだお茶をのみ(本当はいけない)、あぐらをかいたり足を崩してリラックスしながら映画を観た。
何気ない、日常。
内容は詳しく書かないが、この映画は今現在の日本、特に東京に住んでいる人には見慣れた光景が、見慣れないくらい美しく描かれている。
映画「耳をすませば」のように、日常の何気ない風景を切り取ったその空気感は、後から時間を置いて観れば観るほど懐かしくも異質なものになっていくだろう。
あのとき、あの時代、私たちは生きていたんだって思い出すだろう。
この作品は100年後の日本人に(もし100年後に人類が生き残っているならば)観てほしいと思った。
雨が降ることに理由があることを忘れてしまっていた。
映画とは関係ないが、観終わってから、なんとなく「もう理解者を探すのはやめよう。」と、そう思った。
私は、本当のところでは誰にも理解されない。
一生一人。この頭の中は誰にも理解されないし、それは井の中の蛙なのかもしれないけど井戸の外を覗こうと壁を登るのに疲れてしまった。
私は私のできることしかできないのだから。
誰にも理解されないことは別に悪いことではない。
昨日、花火大会で親友と思っていた友達から名前を間違えられたのが引っかかっているのかもしれない。
私から参加を希望して行ったものの、めんどくさそうに話していると感じたからかもしれない。
私が相手に対してなんか色々求め過ぎてしまうことが多いのかもしれない。
私の理想は幻想。
それが崩れないように逃げ回るようにみっともなく生きている。
情けない。
生きる軸がわからない。
私は何者だ。
花火大会に集まっていた人は、医者とか商社マンとか車掌とかみんな肩書きがすごかった。
私は30年生きてきて何者になったのだ。
取り返しのつかない時間の浪費をしてきてしまったのではないか。
今まで自分が壊して踏み潰したものでできた道を振り返ると粉々に砕け散った残骸しか見えてこない。
新しい絵を手に入れても、またすぐ粉々に踏み潰してしまうだろう。
死ぬときはよくわからない粉微塵の小道程度しか残らないだろう。
涙が止まらない。
なんの
ために
いきていくのか
今日はここまで