心と記憶の距離と速さ、死生観、手帳申請。
今日は本当はデイケアの施設に行って入所に伴う面談をするはずだった。
しかし担当医が体調不良とのことで金曜日に延期となった。
急にポッカリ予定が空いてしまうと、頓服と酒を飲んで半狂乱状態になろうか(心の隙ができると不安感がとっさに来ることがあるから)という邪念が浮かんだが、平静を保って精神障害者保健福祉手帳の申請に行くことにした。
必要な診断書はもう書いてもらっていたため後は窓口に出すだけだ。
役所までは徒歩20分とバス15分で行ける。
途中松屋で牛丼を食べた。必ず七味は大量に入れる。
バスから風景を見ていると、近くにあるものほど早く通り過ぎ、遠くにあるものほどゆっくり過ぎる。
雲に至っては動いていないようにも感じる。
当たり前のことが気になった。
これは人間関係においても同じように例えることができるのではないか。
例えば、プラトンは動いているように感じるか。
これは時間的距離の問題。
例えば、ケープタウンの人は動いているように感じるか。
これは空間的距離の問題。
書いてみたところでよくわからなくなった。何じゃそりゃ。
役所について、慣れた感じで障害福祉課に向かう。
手帳の更新をしたいということを伝えるのに、うまく言葉が繋がらなくて日本語が変になってしまった。
昼に食べた牛丼とヒルナミンのせいかぼーっとしていて、でも集中しなくてはと思って、何枚も何枚も住所と名前を書くだけで頭の中でヒーって言っていた。
今日の手続きは書類を記入して出すだけだったので終わってしまうとあっけなかった。
窓口の方は前に自立支援の更新の時に対応してくれていたらしく、私のことを覚えていてくれて嬉しかった。私は覚えていないけど。
今ブログを書いているのは、ショッピングセンターのベンチ。
いつもより書くタイミングとしては早いが、友人とDMでやり取りしていたら心が落ち着いたのでこの気持ちのままブログを書きたいと思った。
距離と速さの話に戻る。
記憶にも距離や速さ(早さ)があるだろうか。
この「ゴールデンウィーク」は早かっただろうか。
物事の渦中にいるときはそれが永遠のように感じるとしても、過去の記憶になってしまえばそれは相当な速度を持って過ぎ去っていくこともあるのではないか。
距離という表現を言い換えるならば、情報量。
3歳の頃の記憶と10歳の頃の記憶の距離と、10歳から20歳までの記憶の距離は同じだろうか。否。
30歳の私から思い返す3歳と、20歳の私が思い返す3歳では、きっと思い出し方が違う。それは記憶の距離が遠くなるからだ。
それであれば、現在についてだけでなく、過去についての感じ方も、未来についての感じ方も、現時点でしか存在しえない。
私よ、いつも何でも忘れてしまうと思っているのだろうと思うけど、忘れてしまうのでは無い。忘れてはいないが、その記憶に対する考え方が変容し、現在の状況においての重要度が大きく変容した結果、思考の中心から外れてしまっているだけなのだ。
(それを忘れているというのかもしれないけど。)
私は頻繁に過去の日常のふとした記憶がフラッシュバックする。
今日のこの瞬間も、記憶のどこかにしまわれて、ふと思い出すだろうか。
不安感や恐怖に怯えて生きていくとしても、今のこの記憶が安心をもたらしてくれるだろうか。
この時間にすがりつきたい。
時間を止めることはできない。
スマフォのカメラでは感情までは残せない。
今日のブログ、文字が進むのは時間的猶予があるからだけでは無い。
ちょっとした高揚感と味方の存在、ブログを書ける端末とベンチ、それにディズニーの良いBGMが流れていたからだ。
もう少し書き進める。
デイケアに行く目的は「私のひねくれた頭を強制してほしい」という考えだった。
私は合理主義的哲学的に価値観を変容していくから、今は気が触れてしまうことが多いけど、触れた分だけより中立な考え(ジンテーゼ)を持つことができているようにも思う。
私の死生観を定めるにあたっては、まだまだ知らないといけないことが多い。
しかし、圧倒的にそれを知ることができない。(ソクラテスの無知の知)
そして知ることができないが故に、「未知の余地」を残すことによって、死の概念に対する真実に揺らぎを持たせ、また、自身の知的探究心を刺激し、これを原動力にして生きることができる。(既知と無知の拮抗によるニヒリズムの回避)
しかし、以上の考えは形而上学的分野だけの解決であって、それを実際たらしめる?世界との物理的ないし論理?的なつながりを見出したい。
デイケアに行ったら、これらのような人生観を
ちょっとタナト発作来そうになったので今日はここまで。
書きすぎたようだ。
過度に集中して全力で文字を書いた。
もしかして、全力を出すとタナト発作が来る?過度集中しているときは、全力だ。
発作の引き金を理解しないとコントロールできない。
少し発作の来そうな緊張感があるけれど、いつもとは違って「圧倒的恐怖感」はほぼ無い。
むしろ、内側にあるエネルギーを何か吐き出したい、発散したい気分。
コントロールできたら自らの力になるのだろうか。(自分に期待するな)
名残惜しいけど、今の時間を終えよう。